千屋花見の山城「赤坂城跡」

赤坂城について

赤坂城の特色

 赤坂城は標高620mの所に在り、比高は、3、40mと思われる。赤坂城は代表的な館城(やかたじろ)で(白石氏の評価)、居住性と防御性を兼ね備えており、岡山県下でもめずらしい。山城から近世城郭へ進化する過渡期の城であると思われる。
 大手側には四段の腰曲輪があり、登城口付近には五輪塔が三基あるが、これらは国道の拡張工事の際に道べりにあったものを移したもの。虎口は逆虎口になっているが、入り口付近には腰曲輪を備えて防御を厳しくしている。また、この曲輪は見張り台も兼ねていたと思われる。
 主郭の広さは18m×32mで、約6畝(600㎡)もある。主郭の奥には約0.5mの土塁が築かれており、近くに城主の住居があったものと思われる(白石氏評)。その前面下に腰曲輪があり、真下の敵を直接攻撃できたものと思われる。城の斜面は切岸によって厳しく造られており、敵の主郭への侵入は容易ではない。搦手側には大きな堀切があり、敵の侵入を阻止できたものと思われる。堀切の北には寺院要塞の跡があり、大きな石を並べて敵の侵入の防波堤となったものと思われる。
 さらに赤坂城の裏(北側)には間加部近江守によって近江の日吉神社から勧請された神社が、民の産土神として崇拝されると同時に、北の守りを固めていると思われる。(山本範)

赤坂城縄張り図(山本範)

赤坂城の歴史

赤坂城は資料(日本城郭全集)によると文安4年(1447)に地域の土豪、間加部常春によって室町中期に築かれたと伝えられる。室町時代中期は備中守護四代細川氏久や五代勝久が支配しており、かなりの権力を行使していたと思われる。赤坂城の間加部氏もその支配下にあったものと思われる。
 しかし、戦国時代になると備中守護の細川勝久と守護代の庄元資の合戦となり、また星田郷の国人三村宗親が再々新見庄に侵入してきた。そこで、永正15年(1518)楪城の新見国経は出雲の守護代尼子経久に被官したのである。(備中国新見庄)なお、『出雲尼子一族』(新人物往来社)によると、前年永正14年に千屋(赤坂城)は尼子の勢力範囲になっているので、赤坂城の間加部氏も尼子の麾下(きか)になったものと思われる。
 そして、備中の覇権をめぐり尼子氏と毛利氏が争うこととなる。
天文2年(1533)、庄為資は松山城の上野氏を滅ぼして備中松山城主となり、尼子氏と同盟を結ぶ。一方、星田郷の三村家親は成羽に進出して鶴首城主となる。(高梁市史、新釈陰徳太平記)後に、三村氏は毛利氏の先鋒となる。(猿掛城の合戦後)
 その後、永禄9年(1566)間加部近江守の赤坂城は毛利方の三村元範の攻撃で落城したと伝えられる。この時、城主の間加部近江守常国や武将の池田勘解由(かげゆ)は討ち死にしたと伝えられる。(池田家覚書)池田勘解由の墓が花見下ケ市にある。(江戸時代のもの)資料・文献等によると、三村氏が赤坂城に武将を置いた記録はない。そして、備中兵乱で三村氏を滅ぼし備中を支配した毛利氏は、赤坂城の城番に毛利氏の武将桂氏を置いたのではないかと思われる。
 天正2年(1574)12月24日の「毛利輝元宛行状」(日本歴史地名体系34)によると、桂善左衛門元将に備中花見の内10貫、30俵の地を与えている。故に、現在の赤坂城は天正期に桂元将が改修整備したものと思われる。(山本範)

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日吉神社
岡山県新見市千屋花見851
*赤坂城跡は日吉神社から徒歩2分
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