岡山県中世城郭総合調査報告書第2冊-備中編より
概要 城はその最高所に東西、南北とも25 mを測る平面台形の曲輪Ⅰを据える。この曲輪が主郭であり、その周囲は比高10 mを測る切岸により周囲から完全に突出している。主郭の北端から西にかけては高さ約1mを測る土塁が巡る。主郭南側縁辺部にもわずかに高まりが認められ、往時は南側にも土塁が築かれていたものか。なお、主郭南西端に削平が認められたが、従来はこれが虎口であった可能性も想定できよう。主郭面の南に曲輪Ⅱが造成されている。この曲輪Ⅱの東側は一段低くなっており、その外周に沿って高さ0.5 ~1mの石積みが築かれている。石積みは岩盤を取り込みつつ、高い場所では2段積みとなっている状況が見て取れた。この石積みはその形態から見て、主郭面への侵入を防ぐ足止めとしての機能を持っているものと考えたい。なお、西側の石積天端は曲輪の上面まで達しておらず、曲輪の流出を防ぐ土留めとしての機能も併せ持つものか。曲輪Ⅱからは山道が南東麓まで続くが、南東麓には堀切1が掘削されている。堀切1から南東へ向かっては、自然丘陵が続いているが、その先端に組合式の五輪塔を集積している場所があり、これが曲輪であった可能性がある。曲輪Ⅱの南側正面は露岩が多数認められ、自然地形かとも見られるが、わずかな切岸段、あるいは犬走りかとみられる小曲輪があり、竪堀状の地形の低まりが3か所で認められた。主郭北側にも爪形の曲輪が一面認められ、さらに北東麓に堀切2が掘削されている。堀切のすぐ東側に竪堀が一本認めら
れた。このように本城は曲輪を中心に据えた単郭の山城であるが、厳しい切岸、石積みや堀切、竪堀を併せたその守りは堅い。主郭が土塁により囲繞されていることは既に述べたが、これも含めて少人数の籠城でも効果的に防御できるよう工夫が成されていると見るべきであろう。
文献・伝承 『備中府志』には城主として尼子方の武将、間加部近江守の名が挙げられている。間加部氏についての詳細は知られないが、備中・伯耆国間の国境警備を担う国衆の一人と考えて良いであろう。 (和田)
解説、縄張り図ともに「岡山県中世城郭総合調査報告書第2冊-備中編-」岡山県教育委員会発行2020より許可を得て掲載